代表取締役 樋口國廣

スタッフ紹介

代表取締役 樋口國廣

私は昭和36年工業高校建築科を卒業しました。
大阪の建設会社に就職が決まり、当時国鉄(現JR)の夜行列車で8時間程かけて大阪へ行くことになりました。
就職会社は違うけど、集団就職みたいな形で友達数人で筑後市の羽犬塚駅を出発しました。見送りの時、母が涙していたことを思い出します。


田舎から都会へ世間知らずで何も解らなくてとても不安だったことを思いだします。会社の寮で住み込みで働くことになりました。会社には母校の2年先輩がいましたので、色々と教えて頂き大変助かりました。
会社では一応社員ですが、社員と呼べるような仕事ではなく雑用でした。
建設現場では休日はなく、毎日掃除・片付け・職人の手伝い等労働でした。手のひらはまめだらけでした。
状況を知っていた庶務課の課長が、建築士の資格を取り状況を変えなさい。と伝言されました。

「建築士を目指すぞ」
丁度その頃、会社の敷地の上部にバイパス道路が当社で建設中でしたので、寮は解体されました。(別な場所に4階建ての寮が建設中でした)仮設の寮が設置され、2階建ての仮設ハウスです。

各階に2段ベット(パイプベット)が5組程設置され、寝るだけの部屋でした。 仕切りは有りません。
私物も部屋の隅に置いていました。机を置くスペースは有りません。この2段ベットで勉強です。

寝たまま、右横になったり、左横になったり、うつ伏せの型になったり、又、仰向けになって教材を両手で持っていました。
この状態では、腕がきつくて長時間勉強できません。灯りが漏れないように、ベットの周りにカーテンを取り付けました。

トイレに行くのも別な場所ですので、2段ベットから降りて部屋を慎重に歩くのですが、どうしてもベットのキシミ、床の足音、外部の鉄骨階段の昇降の足音、ハウス全体の揺れが有ります。寮生も、お互い睡眠のさまたげにならないように、気を付けていました。

何人かは、現場通勤をやめ、現場宿泊に変更した寮生もいました。それでも日中は、仕事で時間は有りません。
ベットでの勉強を1年続け、はれて、建築士の資格取ることが出来ました。庶務課の課長が合格通知のハガキを持って来て、大変喜んでくれたこと、私も大変嬉しかったです。


私が28歳の時、地元福岡の寺の娘さんとの結婚が決まり、寮を出て大阪での生活が始まりました。結婚2年後、知的障害を持った長女が生まれました。会社では役職が付いていましたが、将来どうしたら良いのか、妻と何度となく話し合いました。
年老いた両親・長女の為には田舎の方が、落ち着くのかなと思い20年務めた会社を退職し福岡の方に帰ることとしました。
地元の建設会社に2年ほど勤め、次女が生まれると同時に、樋口建設を立ち上げ独立することに決めました。


最初は、建築だけの仕事では、生活できなくて他の仕事も掛け持ちしていました。その頃、長女は9歳になり、何よりも独立すると決断したのは、障害を持って生まれた長女が、きっかけととなりました。
障害を持って生まれた娘を通して、建築という仕事に高校卒業から携わった経験を振り返り、何か役に立つことが無いか考えるようになりました。


当時、障害の子供は、世間には受け入れられがたさを感じることが多々有りました。まず障害を持って生まれた子供を持つ親の気持ちを考えた時、「人が家に来てほしくない」でもこの子の為に、過ごしやすい家にしたい。など沢山の課題を解決出来ることが自分には出来るのではないだろうか?と、思うようになり、障害の子供を持つ親として、その気持ちを理解し、また、その子供達に段差解消、手すりの取り付け、不具合、不安な場所の工事を施し、過ごしやすい家づくりをしたいと思いました。

弊社も昭和57年1月個人事業設立から平成27年に法人化し40年になりました。これも地元の皆様のおかげ様です。お礼を申し上げます「有難うございます。」長女も、50歳になりました。施設に入所していて、土曜日の夕方に帰ってきます。

最後に、障害など関係なく接してくれる方、色々な方が、いらっしゃる中で、障害の娘がいることを通して、社長あいさつにも申し上げた通り、「家族愛をつなげる家造り」を信念としています。